全国組織に!!
 


2009年10月1日より平和祈念展望台奉賛会と枕崎平和祈念展望台を
守る会(戦艦大和など第二艦隊遺族生存者の会)は合流いたしました。



 守る会会長の池田武邦氏と平和祈念展望台創設者で奉賛会顧問 岩田三千年氏


  
                   ー合併のご報告とご挨拶

秋に入りましたが、みなさま、いかがお過ごしでございましょうか。
 枕崎平和祈念展望台を守る会が枕崎平和祈念展望台奉賛会(畠野宏之会長)に合流する件で、2009年8月5日、守る会会長として私、池田武邦は奉賛会の岩田三千年顧問と現地の鹿児島県枕崎市のホテルで会合し、会則案について調整、10月1日発足で合意しました。
 守る会側からは高田順甫事務局長、大保博栄会員、渡辺圭司有志の3人、奉賛会からは江田文子事務局員が同席しました。
 私は次のようにあいさつをしました。
「藍原マサ様のご尽力で守る会は発足し、全会員と共に2年間続けてきました。今後をどうするか、を東京で何回か会合を開き、基本的には奉賛会と一本化できる、と会則案を決めました。最近、私の体験談(矢矧乗艦)を20代、30代の若い人が一生懸命聞いてくれるようになってきました。若い世代が関心を持つようになったと感じています。追悼と同時に伝えることが大事だと思います。そのためにも合流して守る会の意義を存続させたいと思います。」
 岩田顧問は「合流はありがたいお話です。『まごころと思いやり』で続けることが会員増強につながると思う」と答えられました。
 岩田顧問は「慰霊行事を始めて10年たった平成17年ごろから停滞気味となった。そこへ藍原マサ様が守る会をつくって応援していただき、頑張ることができた」と藍原様に格別の謝意を示されました。
 岩田顧問のお話によると、現在、火之神公園平和祈念展望台には年間約1万5千人が訪れ、道筋の石燈籠は56基となりました。案内のボランティアが4人もおられ、枕崎市の訪れるべき場所の一つになっているそうです。
 その始まりは岩田顧問が枕崎商工会議所会頭となった昭和60年夏、枕崎市を「日本一こころ優しい町」にしようと思い立った時です。6年後の平成3年10月、枕崎商工会議所が「戦艦大和ほか戦没者50周年記念事業」として火之神公園平和祈念展望台の建設を決め、平成7(1995)年4月7日に除幕式を行いました。
 この間、岩田顧問をはじめ枕崎市の方は広島県呉市の戦艦大和の会長、副会長を枕崎市に招き、また、呉市に6回も赴いて史実を学んでこられました。
 当時、戦艦大和が中心の沖縄海上特攻作戦という見方だったことは否めません。そこへ、矢矧遺族である藍原マサ様が「悲劇は大和だけではない。第二艦隊として考えるべきだ」と申され、平成19年11月、第二艦隊の生還者、遺族に「枕崎の慰霊行事と慰霊碑を風化させないため」と呼びかけ、守る会が発足しました。私も藍原様のお考えに同感するところ多く、会長を引き受けることにしました。
 平成20年と同21年の各4月7日、守る会は奉賛会主催の「海上特攻第二艦隊戦没者追悼式」に参列し、各回とも守る会の浄財80万円を寄付して参りました。
 特に同21年の追悼式では、枕崎市の前に徳之島・犬田布岬に於ける「第42回戦艦大和を旗艦とする特攻隊戦没将士慰霊祭」にも参列、帰路の船内で洋上慰霊祭を営むことができました。
 参加者43人のほかに名古屋市の南山中学校3年生4人も出席しました。南山中学校は藍原様の特別授業を設けて「いのちの大切さ」を教えています。中学生は式で「ふるさと」などを歌い、戦没者の冥福を祈ってくれました。
 今回の合流はこの趣旨を生かし、広く訴え、伝えようという目的を持っています。
 合流の件について、ご理解をいただき、ご了承、また応援をお願いする次第であります。
 みなさま、ご健康に十分ご注意くださいませ。
敬具
               

2009年10月1日

                    枕崎平和祈念展望台を守る会
                     会長    池田 武邦
 
   ー平和祈念展望台奉賛会ー