■渡辺圭司氏(奉賛会会員)の取材メモ

    
 

平成2247日、平和祈念展望台で執り行われました追悼式での生還者の証言より

 

 今年の追悼式会場に参列した第二艦隊生還者の1人、細田(せだ)正徳さん(85)=鹿児島県薩摩川内市樋脇町=は軽巡洋艦矢矧の右舷3番機銃の旋回手として乗り組んでいました。海軍に志願して2年半になる上等水兵でした。3番機銃班は海面すれすれに攻撃してくる雷撃機1機を撃墜しましたが、その後、爆弾の直撃弾を受け、同機銃班8人のうち細田さんだけが生き残りました。細田さんの機銃班が直撃弾受けた時、班長の石井兵曹長が細田さんをかばうように上から覆ってくれたため細田さんは助かった、と言います。戦後は矢矧の母港である長崎県佐世保市の海軍墓地で矢矧の慰霊祭に出席。が、会員の高齢化のために2003年から中止。枕崎市の第二艦隊追悼式には初年度から毎年、出席を続けています。「3番機銃班員の冥福を祈り、同機銃班の頑張りを伝えるためにもこれからも毎年、枕崎へ妻と共に参りたい」と話していました。




    (左手前 細田正徳さん)

    



◆駆逐艦涼月の写真を携えて出席したのは佐賀県みやき町の太田五郎さん(90)です。涼月は生還した4隻のうちの1隻ですが、被害が大きく、後進して佐世保まで戻りました。太田さんは後部砲塔員で上等水曹でした。涼月前部の弾薬庫が内側から丸太棒をつっかい棒にして破壊を免れ、浮き袋となりました。辛うじて沈没を免れましたが、弾薬庫内の3人は自ら脱出口をふさいでしまい、戦死しました。今年から涼月乗員による語る会が始まり、太田さんは4月4日、北九州市若松区であった語る会に出席。その足で枕崎市にかけつけました。「沖縄海上特攻作戦の悲劇の陰で黙々と任務を果たした戦友を知ってもらいたい。語る場所、祈る機会があればどこにでも行く」と枕崎市の追悼式に感謝していました。



   (左側 太田五郎さん 右側 息子の勘さん)



■戦艦大和の最後を描く  〜水平線に火柱〜

元軽巡洋艦矢矧 生還者 山口治雄さん(福岡県在住)



枕崎平和祈念展望台奉賛会が集めた沖縄海上特攻作戦に関係する目撃図3枚を4月5日、枕崎市住吉町、岩田ビルで記者発表し奉賛会会員の渡辺圭司氏が説明されました。ここで2枚の目撃図を紹介いたします。

◆【戦艦大和の最後

『私は見た。戰艦大和と行動を共にした巡洋


艦矢矧の乗組員で大和より早く沈んで重油をかぶり流木につかまり漂流していました。25浬は離れていたでせうか。 突然大きな爆発音が聞こえたので振向くと水平線に空高く眞赤な火柱が建っていました。その後数回爆破をして 沈んでいきました。当然遠く離れていても海中にいる身体にはブルブルと水圧を感じました。残念乍ら海面にいて眼線が低いので艦姿は見えませんでした。「男たちの大和」の映画を見られた人でしたら沖縄水上特攻の戰斗が如何に激戰であったかを理解して貰えるでせう。

漂流5時間して駆逐艦冬月に救助されました。
絵にある火柱には黒い点が混じっていますが、爆発と共に吹き飛んだ鉄の部材です。


山口さんは同じ図柄を何枚か描いています。奉賛会はその一枚を昨年4月、広島県呉市の海事歴史科学館(愛称・大和ミュージアム)に送りました。戸高一成館長は「艦隊生存者が戦後の資料に寄らず、大和沈没の瞬間を描いた目撃図はこれまでない。火柱は米軍が撮影した写真にもなく、二重の意味で貴重な資料」と評価されました。



  (福岡県在住 山口治雄さん)



◆【鹿児島郡三島村黒島 日高康雄さん

沖縄海上特攻作戦で進撃中の大和と見られるフネを記憶を頼りに描きました。国民学校6年だった日高康雄さん(76)は1945(昭和20)年の春休みのころ、黒島北方の海を「とてつもなく大きい軍艦」とそれを囲む数隻の軍艦が通過するところを見ました。その光景を思い出して描きました。日高さんの話です。「大きな軍艦」を囲む船は縦になったり横になったりとジグザグに進み、不思議な航行をすると思った。それらの船は「大きな軍艦」に比べて余りに小さく見えました。「大きな軍艦」は初めて見る型でした。

とてつもなく巨大な船と余りにも小さな船の対比が記憶に残り、絵にしました。

天候は曇りで空一面、雲が覆っていましたが、雲の隙間から差し込む光線で、「大きな軍艦」の高い艦橋の上部が時々、白く反射していました。

空にはたくさんの飛行機が飛んでいました。赤とんぼのようでした。艦隊が西方の島影の向こうに消えると、飛行機の群は同じ方向に向かい、しばらくして轟音が響いてきました。そして、黒島の地面が揺れ動きました。



  


 
   ー平和祈念展望台奉賛会ー