【追悼文奏上】


    
                                      
                           巡洋艦矢矧遺族  大保 博栄

 

このたびの東北・関東地方を襲った大震災の犠牲になられた方々の、ご冥福を皆様と共にお祈りし、被害を受けられた全ての皆様に心よりお見舞い申し上げ一日も早い復興を願っております。

あの大惨事をテレビの放映で見ていると、先の大戦における米軍の東京を始め各都市の無差別な爆撃、そして極めつけは広島・長崎に最も卑劣な原子爆弾を投下して、都市を破壊し多くの無辜の市民を殺傷した光景が重なってきたのは私だけでしょうか。今回の大惨事は巨大な自然の力の前には、我々人間の力とは何と無力なものかと思い知らされました。

今年も4月7日を迎えました。先の大戦末期に沖縄海上特攻作戦に従事された方々にとっては決して忘れることのできない日であると思います。戦後66年が経ち「もう66年ではなく、まだ66年」という、お気持ちと思います。国のために命をかけて戦い、戦死された英霊の土台の上に今の社会があることを国民は忘れていないか。歴史を忘れる民族は同じ歴史を繰り返すという言葉がありますが、歴史を直視し学ぶ必要があると思います。そして、この国と自らの関わりをしっかりと抱けるような歴史教育の仕組みを整え、そしてまずこの国について知り、関心を抱かせる教育にすべきではないでしょうか。新しい日本は古い日本の上に築かねばならないと思います。

特攻艦隊は、近代兵器で圧倒的な物量を誇る米軍の強敵と相対して、生死の間をさまよったことは容易な業ではなかったことと思います。

「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」とありますが、先の大戦における戦争指導部は全く逆の道を歩み、個々の「作戦研究」のみ没頭して「戦争研究」が、できず多くの無辜の国民を始め軍人軍属のみならず、貴重な日本文化や伝統を消滅させてしまいました。

私の父は昭和9年に佐世保海兵団に入団し、昭和16年の開戦時は土浦航空隊において、翌17年には三重航空隊そして18年3月から鹿児島航空隊の予科練教官として勤務していましたが新婚間もない昭和1811月に「矢矧」艤装員として着任し、以来撃沈されるまで「矢矧」と共にありました。

その父から時々話を聞くことがあり、その中で「若き予科練生は笑顔で国のために殉じ、その姿は立派なものだった。立派な青年達を早く死なせてしまった」と、静かに語った時がありました。私は海上自衛隊定年退職時に車で日本縦断を実施し、その行動中に、どうしても父の思いを届けてやろうと土浦、三重航空隊跡地を訪問して、各航空隊の慰霊碑や資料館の中に、笑顔の遺影で飾られている予科練生の皆様に、亡き父に代わりお詫びをしてまいりました。

また父の手記の中に「矢矧」で沖縄向け航行時、故郷の開聞岳沖を航行する時「佐多岬、開聞岳や故郷の山々はいつもの姿を見せ、そして静かに眠る我妻、我娘はどんな夢か、この命は今夜こそ今日限りであり、とても生きて帰ることはできないと思うとホロリとするものがあった。」と、ありました。この中で我娘とは、当時、まだ父は見る事のなかったと思う1歳にも満たない私の姉です。そして我妻こと私の母は先月25日満91歳で父の元に旅立って行きました。私は海上自衛隊在職時この海面を航行する時は、いつもデッキに出て父の気持ちに思いを馳せ平和の有難さに感謝しながら故郷の山々を見つめていました。

米軍の記録写真を見れば「矢矧」は完全に行き足が止まり、戦闘力を失っているにもかかわらず米軍機の執拗な攻撃を受けて遂には撃沈に至っています。

父は「矢矧」撃沈後、「漂流中に無抵抗の我々に、敵機5機の戦闘機が急降下銃撃を加え、胴体には星のマークと「A50」と書かれていたのを鮮明に読めた。そんな中、兵士は次々に海底に沈み、これを助ける余力はなかった。しかし自分は比較的元気で、死を予期せず生きることへの執念に燃えて張り切っていた」と、ありました。お陰さまで戦後生まれの私が、今ここにあることに感謝している次第です。

人が人を殺し合う戦争は絶対にあってはならないと思います。しかしこの世から戦争や紛争が決してなくならないのが実状です。戦後の我々は先の大戦の戦争体験「負けて学ぶ」を基にして、さらに、将来の進歩を図って、時勢の発展に遅れないように努めなければならないと思います。そのために先の大戦から無事に生還された方々は、どうか生命の許す限り、又、声の出る限り機会をみてお話しをしてください。それが語りたくても語れない英霊の皆様への、ご供養になるのではないかと思います。「こんな日本のために死んでいったのではない」と言う、英霊の声が聞こえそうです。

また、戦争はもちろん、その時代を知らない我々は聞く勉強をするべきだと思います。

明治の指導者の判断は現実的で、日清戦争後の仏、独、露の理不尽な介入、いわゆる三国干渉を受

け入れて、勝ち目の無い戦争を回避しましたが。中国と15年戦争を始め、そしてパールハーバーを叩いた昭和の指導者は勝ち目の無い戦争に突入し国家存亡の危機に瀕しました。

明治の指導部は、戦争をしたらどうなるか、ということをわきまえていたと思います。

三国干渉を飲んだ10年後の日露戦争で日本は勝利しました。

また明治の指導者は、日露戦争においても的確な判断で講和に持ち込み日本の危機を救いましたが、昭和の戦争指導部はそれができなかったと思います。その原因を探れば日清・日露戦争に勝ったことで慢心があったと思います。国の存亡をかけた、先の大戦の開戦時における日米の国力を考慮すれば、明治の指導者であれば戦争を始めることは、到底なかったと思います。

日露戦争において、ロシアのバルチック艦隊を対馬水道で撃滅した指揮官、我薩摩が生んだ東郷平八郎元帥は連合艦隊解散の辞で「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」と訓示しました、この訓示を米国ルーズベルト大統領は絶賛し「万一不幸にして戦争となったら、軍人並びに祖国の名誉を護るために身を捧げんとする人たちに推薦する」と英文化して米国民に通達しました。

紛争や戦争の原因は「民族・宗教・資源」であるといわれていますが、この中で日本にとって資源の確保が、いつの時代でも最重要であると思います。

最近の歴代内閣は国の防衛問題や領土問題を、どのように考えているのか全くわからず、執念が感じられません。「国の安全を守るには、どうしたらいいか」という視点から論議するのが基本であり、尖閣諸島・竹島及び北方領土の領有権問題を始め、我日本国民が長期に亘り北朝鮮に拉致されている問題が一向に解決しない現状に、多くの国民は苛立ちを抱いております。しかし、残念ながら、このような政府を選んでいるのが我々国民であるのが実状です。

政府は領土問題を早期に解決し、拉致されている方々を一刻も早く救済すべきだと思います。

20世紀は悲劇の連続でした。我々は20世紀に起きたことをしっかり見つめて、21世紀を生きる我々に課されているのは20世紀の悲劇を、いかに繰り返さないか、ということだと思います。そして一人一人の生命及び人格が尊重され、幸福を感じる世紀でありますよう祈っています。

そして、この世界史上、例を見ない特攻作戦の悲劇を、後世に語り継いでいくことが英霊の皆様へのご供養になるのではないかと思います。それが我々、戦後生まれに与えられた責務であると思います。

どうか本日ご参列の皆様、この枕崎から世界に特攻艦隊の悲劇と平和へのメッセージを発信しようではありませんか。

英霊の皆様どうか、安らかにお眠りください。

                                                平成23年4月7日 

 
   ー平和祈念展望台奉賛会ー