軽巡洋艦矢矧 生還者 西 創一郎
戦後40年目にして海底に沈んでいる戦艦「大和」が英国の潜水艇「パイセスU」によって発見されたが、同じ場所に沈んでいった私の乗っていた軽巡「矢矧」が、忘れられたままになっている。私は泳ぎながら「大和」が爆発して、沈む時の『きのこ雲』を見ている。
又矢矧が沈む時の様子が、今でもありありと瞼に浮かんでくる。
連合艦隊最後の舞台となった、沖縄海上特攻天1号菊水作戦の鹿児島県坊の岬沖海戦について記述することにする。
昭和20年4月5日
呉でドッグにはいり修理を終えた矢矧は、瀬戸内海の夕暮れ、可燃物を満載した内火艇が、小島に向かってしきりに往復している。各艦に於いても同様であった。三田尻沖、大島南西海上に、今までの海戦で生き永られた残存十余隻の艦隊が、警戒配備のまま出撃命令を待った。すでに全員に対して恩賜の酒と煙草が配られ、酒は全員で飲み、煙草は一本だけ所持して他は郷里に送った。
矢矧は戦艦大和を旗艦とする第二艦隊、第二水雷戦隊旗艦として駆逐艦八隻を率いて「大和」の配下にあった。戦艦大和、巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞、涼月、冬月以上10隻であった。兵学校を出たばかりの候補生も実戦には、邪魔になるということで、内火艇で去っていった。
昭和20年4月6日
十五時二〇分海上特攻隊の各艦に「出航」の旗旒信号が一斉に掲げられた。
徳山沖で錨を揚げ出港した。いよいよ沖縄に向けて出撃。乗員全員前甲板に集合した。
原艦長は一同に次のような訓示をした。「長官より興国の興廃この一挙に存ず。各員一層奮励努力し以て海上特攻隊の本領を発揮せよ。今から沖縄へ向け出撃する。敵艦船の中に突入し、沖縄の海岸に乗り上げ、陸の砲台となり最後まで弾をうちまくり、敵を撃減せん。」
各員それぞれの配置ににつく。片道燃料だけの文字通りの特攻隊であった。
私の戦闘配置は見張りで左舷艦橋の近くの対空、対潜の警戒に当たり重要な位置であった。見張り用の眼鏡から中国の山々や島の緑の中に咲き始めた桜の花を見て、二度と見ることはないであろう、桜の花に別れを告げたのである。
昭和20年4月7日
真夜中、艦隊は豊後水道を通り都井岬。大隅半島南端の佐多岬に向け、九州の陸地よりに、敵潜水艦の攻撃を防ぐため南下していった。大隅海峡あたりで、敵潜水艦の接触をうけたが攻撃もなく、艦隊は無事大隅海峡を通過して、薩摩半島坊の岬を後に洋上を西に進撃を続けた。午前6時頃口永良部島を通過する。上空には零戦十数機が護衛してくれた。艦隊の上をゴウゴウと何回も何回も旋回してくれた。しかし零戦も間もなく反転帰投した。矢矧の艦上機も鹿児島の基地に帰し、南に向かってジグザグ航法で航海をはじめる。この頃から敵のマーチン飛行艇が、積乱雲の間に弧を描きながら接触し始めた。艦隊の後方には敵潜水艦が、尾行している情報あり、空と海から艦隊の動きが見張られてしまった。
私は艦橋の左すぐ下で左の方の対空対潜見張りについていた。敵機が来ないうちに早くお昼(昼食)ということで、見張りについたまま主計兵が、持ってきた握り飯をパクついた時、けたたましくブザーが鳴った。「対空戦闘配置につけ」「対空戦闘」次々に下る命令。号令。時刻は午後12時30分ごろ、来るわ、来るわ、左45度。高角20度
雲の切れ間から青空を背景に約200機からなる大編隊、第1次攻撃隊であった。一瞬蚊の大群を連想した。突然、雲間から急降下真正面から突っ込んでくる、と思ったら、たちまち頭上を反対舷に飛び去った。グラマンだ。艦隊からは大和をはじめ主砲、高角砲、機銃とひっきりなしに応戦の火ぶたを切った。まるで前後左右から突っ込んで爆弾、機銃弾、魚雷とあびせかけてきた。まさに十字砲火であった。
「雷撃機3機、左60度、水平線すれずれに飛来する」とただちに艦長に報告する。魚雷3本が航跡をひきながら向かってくる。「とりかぢ一ぱい」航海長のきびきびした号令が、聞こえてくる3本の魚雷は、艦すれずれに後方へ過ぎていく。ホッとする間もなく次の雷撃機が飛び込んでくる。上空からは艦載爆撃機が、次から次へと爆弾を投下してくる。その間をぬって戦闘機が翼の両端から、数条の煙が糸を引くように弾を打ち出し、と見る間に前後左右に火の雨が、音をたてて付き刺す。
洩光弾は火をふいて飛んでくるので、弾道が見えて気持ちが悪い。爆弾が艦に当たると爆発で白煙が上がり、艦自体上下左右にものすごくゆれる。ドカーン、艦体が横にゆれる。敵の魚雷が当たったらしい艦体が上下に揺れる。今度は魚雷が命中らしい。12時50分頃敵攻撃隊の襲撃が一時途切れた。
矢矧は航行不能となった。続いて1時20分ごろ約130機の第2次攻撃が始まり、航行不能になっている矢矧に敵の戦闘機、雷撃機爆弾機の激しい空爆が集中してきた。激しい砲撃戦が続く。艦が航行不能になっても、戦死する人が次々出てきても、矢矧は持ち場を離れず最後まで応戦した。魚雷、爆弾が命中して艦体が横に、またたてに揺れる回数が多くなってきた。矢矧が動けなくなったので、司令部を駆逐艦に移すのだという。磯風が近づいてきた。速力を落して左舷に並んだ時敵機が来た。慌てて離れようとしたが間に合わず2番砲塔に直撃弾を受けてボンという音と火の粉を残して二つに折れて轟沈した。運が悪くて可哀そうに思った。
魚雷発射管に火災が発生する。魚雷が誘爆するので沖縄で使うはずだった魚雷を次々と海中に投下する。敵の魚雷が当たると艦全体がメチャメチャに震動する。あらゆる物が上下左右に、又前後に躍り上がる。目の前の砲塔に爆弾が命中して黒煙を上げた。あの砲塔には黒岩伸一がいたのではないかと思った。黒岩は同じ師範学校の同窓で出撃前夜共に飲み、共に語らって又どちらか生き残ったら、二人分の子供達の教育をやろうとお互いに誓い合い別れたのであったが、無事であることを祈った。その内に艦が左に傾いてきた。後甲板を振り返って見て驚いた。後甲板がなくなって途中でズタズタにちぎれていた。そのうちに艦鳴りが始まり、ゴーゴー、ギイギイ、ゴボゴボと艦全体よりしだした。
原艦長より「全員よく闘った。本艦より退くのは残念だが総員退艦せよ。」と悲痛な命令が伝えられた。皆持ち場を離れて次から次へと皆海に飛び込み始めた。私も持場を離れた。持場にいた時は全然考えていなかった死への恐怖が、離れたとたん襲ってきた。急いで艦橋より降りようとした時、シュッシュッと音がするので上を仰いでみると爆弾が2発、しかも砲丸のように丸くなって落ちてくる。丁度真上だと思った。「もうこれまでだ」と覚悟をきめて、甲板に伏せると同時に「ドカン」と爆発した。幸いに爆弾は約5m離れた煙突の中に飛び込み機関室の中にはいり爆発し、煙突が二つにさけただけで助かった。私の伏せた近くに顔半分と片腕を亡くして、血にそまって倒れている戦友を見た。心の中で合掌してタラップを降りた。左に傾いていた艦は右に傾きを変えていたが、私は左に行き高角砲の砲塔から飛び込んだ。海面は艦から流れ出した重油の層でいっぱいであった。重油に火がつかなかったのは幸いであった。私は「艦に巻き込まれてはいけない」と思って抜き手で泳いで艦から離れた。矢矧は50mも離れたであろうか、振り返ってみると、矢矧はズタズタになった艦尾を、水面下に艦首を高く見る間にスーッと沈んで見えなくなった。僅か数分のことであった。その海面は暫く白い渦を巻いていたようだが、後には黒いぼつぼつの浮遊物が残るだけだった。沈んだ場所は徳之島の西方50海里という、時刻は記録によると、十四時五分と記録されている。私は矢矧の誕生から沈む時まで乗って共に行動していった。その矢矧が八発の魚雷と十二発の爆弾が命中するまで持ちこたえたという軽巡洋艦の最後を飾るにふさわしいものであったと資料に残っている。
沈没してから海面には一面重油の海、その中に樽、防舷物、乗員の黒い頭が浮かんでいる。誰が誰だかわからない。誰が歌い出したのか「海ゆかば」の歌がながれ、みんながそれに唱和して辺り一面に流れる。この頃から敵機の機銃掃射が始まる。私は無意識にもぐりこむ、敵機の目標になり易いからだ。やがて木材が流れてきたので掴まっていると、近くに泳げない者がいたので木材を押して与える。しっかりと木材にしがみついた。私は立泳ぎでゆっくり泳いだ。衣服を着たままだったので、衣服の中に空気がはいっていて泳ぎやすかった。
敵機の機銃掃射はさらに続く タタタタターこちらを向いてくる。パチパチ シュッシュッと水坊主の帯ができる。洩光弾が火を吹いて飛んでくる。浮いていた頭があちらこちらでスーッと沈んでいく。今か今かとやられるのを待っているようなものだった。さっきから離れたところにマーチン飛行艇が着水して、敵の搭乗員を救出しただけで飛び去っていった。その頃遥か水平線近く、大爆発を聞いた。黒い竜巻のような「きのこ雲」が天までのぼっていた。後で分ったのが、大和の爆発、沈没だった。敵の機銃掃射はさらに続いた。あたりには人も少なくなり、重油の層もだんだん薄くなっていった。身体も少しずつ冷えてくるように感じられた。大きな角材が目の前に流れていたので掴まった。だんだん疲れてきた。近くに五〜六人泳いでいたが、どの顔も重油で真っ黒になり黒ん坊のようで誰だか見分けもつかなかった。角材に掴まりながら波のうねりに身をまかせた。
海面に夕暮れが迫りつつあった。今頃我が家ではどうしているだろうかと思った。長い
時の刻みであった。その時遥か彼方に煙突らしいものが見えた。敵だろうか、味方だろうかわからない。その内に駆逐艦であることがわかり、夕暮れの中に煙突の菊水マーク(味方の印)が見えて来た。味方の艦だ。三隻が私達の泳いでいる海面を取り囲むようにして、ただよい始めた。雲が低くたれ、薄暗くなった海面を駆逐艦を目指して私達は泳ぎ始めた。漸く駆逐艦に辿りつく。駆逐艦の外舷から縄ばしごがおろされていた。私はやっとロープを掴まえて、気力をふりしぼって縄ばしごを登ろうとしたが、水面上に出ると衣服の水分の重さで手に力がはいらず、又水中に落ちてゆく他の人たちも、私と同じように力つきた感じだった。艦の上から気づいたのか、輪になったロープをおろしてくれたので、輪の中に身体を入れて引き上げてもらった。甲板に立った途端、座り込んでしまった。相当疲れていたらしい。助けられた者全員同じ状態であった。兵員室には大勢の水兵が救助されていた。皆、顔は重油で真っ黒であった。着ていた衣服をすべて脱ぎすて、支給された軍服に着かえた。やっと人心地がついたようであった。救出した駆逐艦は「冬月」であった。途中潜水艦の接触を受けたが、暗黒の海面を冬月は佐世保に向けて北上して行った。無事佐世保に入港した。
誰が生きており誰が死んだのか分からなかったが、後でわかったことは、乗組員900名の内約450名が戦死したとのことであった。同窓の黒岩伸一君も戦死していた。私達は生きていた喜びと戦死した戦友を偲ぶ悲しみを共に語り合った。
今の平和な世の中を過ごす楽しみを知らずに、戦争中の青春を送り散っていった戦友を偲ぶ時、二度と生地獄であった戦争がなくなり、平和な世がいついつまでも続くことを祈って、亡き戦友の冥福を心から祈っているところであります。この戦争で日本の連合艦隊は最後を迎えました。戦死者大和の乗組員2740人を筆頭に合計3721人が戦死されました。艦船は東シナ海で沈んだのは「大和、矢矧、磯風、浜風、朝霜、霞」の6隻で「冬月、涼月、雪風、初霜」は佐世保に帰ったが奇跡的に無傷だったのは駆逐艦「雪風」ただ1艦だけでありました。
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